2014年10月27日
文/厳秋霞
原文は2014年10月27日付『南洋商報』副刊に掲載されました。
「中華人文碑林」の「本地碑林」区に収められた作品は、二世代ほど前の校長、教師、書画家、文人雅士、そして実業家たちによって書かれたものです。毛筆を日常的に手にしていた年長世代にとって、書法はきわめて身近な営みでした。そこに書かれた内容は、自然と一つの世代の気風を映し出しています。今日では書法は一つの芸術となり、心を養うだけでなく、私たちを古代文化へと結びつけます。書法碑刻は中華文化の宝であり、豊かな文史情報を含み、歴史の真実性を伝えています。
本地碑林区の作品は、書き手の出生年順に並べられています。入口に最初に置かれている碑は陳嘉庚の作品です。この「第一」には、典型的な儒商、教育家、南洋各地華僑籌賑祖国難民総会主席、南洋僑領、『南洋商報』創辦人、中国集美大学および厦門大学の創辦人という、幾重もの代表性が込められています。陳嘉庚(西暦1874年10月21日-1961年8月12日)は福建同安県集美社の人で、清末、民国、新中国成立を生き抜き、「華僑英雄」と称えられました。著作に『南僑回憶録』(1946年)、『南僑言論集』(1949年)などがあります。その書法は円潤で自然、顔真卿『麻姑仙壇』の趣を備えています。この楷書碑には、中国の内憂外患を身をもって経験した彼の愛国心と社会的責任感が表れています。
民族を守るため抗戦精神は死なず
独裁を倒すための犠牲は千古に芳名を残す
東北烈士紀念館 陳嘉庚敬題 大中華民国三十八年七月十日
教育は立国の本
若い頃にマラヤで暮らし、マレーシアとシンガポールで事業と教育に多くの成果を残した陳嘉庚でしたが、彼の心のよりどころは故郷にありました。華僑の指導者としてゴムやパイナップルなどの事業に携わり、成功後は惜しみなく私財を投じて故郷の教育事業を興しました。その姿は「家産を傾けて学校を興す」と称されます。彼は「国家の富強は国民にあり、国民の発展は教育にあり、教育は立国の本である」と考えました。彼が設立した集美学校は、幼稚園から高等教育までを備えた学村となりました。
2012年10月、筆者がラーマン大学中華研究院の師生と閩南文化の旅に同行した際、ガイドの黄玉麟氏はこう説明しました。「陳嘉庚が成長した時代は西方植民勢力の侵入に直面していましたが、彼はなお『中学を主とし、西学を用とする』ことを強調しました。その精神は建築に表れています。西洋式の高層建築に中式の宝塔屋根を載せる。集美学村の校舎はどれもこの様式です。」中華人文碑林工事を担当した高級工芸美術師の王龍海氏が、陳嘉庚の創辦した集美大学の卒業生であることも象徴的です。彼への共感から、書法と集美大学キャンパスの一角を一体化させた碑を設計し、陳嘉庚という人物と事績の精神的内実をより具体的に示しました。
平民教育の提唱
2014年8月、陳嘉庚の外孫である傅樹介医師と友人の葉漢源氏、陳月清氏が碑林を訪れました。傅医師は「家には孫が多かったので、祖父は私のことをあまり覚えていなかったでしょう」とユーモラスに語りました。80歳を過ぎた傅医師は英植民地時代に生まれ、シンガポールのマラヤ大学医学部を卒業しました。家庭では福建語を使い、英語教育を受けたため、祖父の書法を味わうことはできませんでしたが、幼い頃から祖母や家族の年長者から祖父の事績を聞いて育ちました。陳嘉庚の教育投資は、初めは一方的な願いに近いものでした。集美小学校の創立当初、校舎も教師も整っていたのに、初日には一人の児童も来なかったのです。子どもたちは海辺で牡蠣を拾い、家計を助けなければならなかったからでした。彼は教育の大願を実現するため、学期ごとに2元を支給して子どもたちを学校へ招きました。集美小学校はそのような状況から始まりました。さらに翌年には「通俗夜学校」と「閲報室」を設け、成人にも普及教育を広げました。
今も衰えない影響力
教育事業への信念は、商売の失敗時にも試されました。厦門大学と集美学校への支援を減らすよう勧める人もいましたが、彼は「会社を閉めても、厦門大学は支える」と語ったといいます。陳嘉庚の企業王国は破産後に姿を消しましたが、彼の影響力はいまも衰えていません。教育への熱意は李光前や陳六使にも影響を与え、当地域の華文教育に貢献しました。この10月は彼の生誕140周年にあたり、当地と厦門の関係団体が彼の精神を顕彰する催しを開きました。陳嘉庚の一生は「実業、教育、立国」を実践したものであり、その理念は、彼を偲ぶ人々がこの儒商の典範を多角的に解釈する手がかりとなっています。
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